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外交の現場を行

◉第11回◉ 台湾と日本の狭間で闘った先駆者たち

台湾南部の古都・台南市に来ている。

1カ月間の語学留学中なのだ。台南は北回帰線の南(熱帯)にある。台北よりも暖かく、物価も安い。僕がお勧めする世界の都市のひとつだ。

Taiwan-County-Map

台南に来たのは、別の理由もある。ここは17世紀のオランダ支配に始まり、鄭成功、清朝時代、日本統治、国民党時代という外来政権支配を経験して来た「歴史の重層都市」であり、人権獲得と自立国家を目指して闘って来た先駆者たちの街でもあるからだ。

今回は、日本と台湾の狭間にあって、格闘して来た日台混血の弁護士・湯徳章(日本名・坂井徳章)と、台湾独立運動家だった王育徳と、その兄の王育霖の軌跡を紹介したい。(文中敬称略)

<現場①>湯徳章紀念公園(台南市中西区南門路13)

①台南市の2・28事件70周年紀念公園(28日午前9時半写す)
台南市の2・28事件70周年紀念公園(28日午前9時半写す)

2月28日、この円形公園で「2・28事件70周年」の記念集会が開かれた。

「2・28事件」とは1947年2月27日、台湾の繁華街でタバコを売っていた婦人が取締りの警官に暴行され、目撃した台湾人たちが抗議して発砲されて1人が死亡した事件が契機である。これが翌日から台湾全土に拡大し、台湾人の闘争に対して、大陸から来た国民党政府が血の弾圧を加えた。死者は政府推計でも1万8000人から2万8000人と確定値がない。

国民党政権下では長い間タブーにされてきたが、1987年の民主化(戒厳令解除)後から本格的に取り上げられて来た。映画「悲情城市」(候孝賢監督、1989)で、その一端を知った日本人も少なくないだろう。

台南市でも惨劇が起きた。その状況は、昨年12月に出版された門田隆将「汝、ふたつの祖国に殉ず」(角川書店)に詳しい。中心人物が、湯徳章である。警察官だった日本人の父親(熊本県出身)と、台南郊外育ちの母親との間に、1907年に生まれた。重要なのは当時、台湾人と日本人の結婚が禁じられていたことだ。彼は母親の姓で育った。1915年に起きた台湾人の大規模抗日事件(日本人40人、台湾人1254人死亡)で、警官だった父親が死亡する。

母子家庭の子になった徳章は、授業料免除の師範学校に進学したが、日本人教師の台湾人蔑視などから自主退学し、父親と同じ警官の道を選んだ。門田が自著で「許せない『台湾人差別』」の章を立てて詳述しているのを注目したい。

32歳で上京した徳章は、高等文官試験のため中央大学に入学し、司法、行政の双方に合格した。そして、故郷・台南に戻り弁護士として猛活躍する。敗戦。台湾には新たな支配者・国民政府軍が進駐して来た。これが「2・28事件」を生む背景だ。

総じて言うと、日本統治50年間の中で、台湾人は近代化の基礎を作り、台湾人意識が形成された。それを踏みにじったのが、大陸からの外来政権だった。2・28事件が台湾人意識を強固にし、1987年の民主化以降、国民党支配が揺らぎ始めると、事実上の「台湾人の国」の時代が始まった。これが台湾現代史の基本だ。中国側が「ひとつの中国」論を楯に、神経を尖らせている理由でもある。

日本と台湾の関係は、「3・11東日本大震災」に対する台湾からの多額の義援金によって、日本人に「感謝台湾」の気持ちを持たせた。さらに、学生らの「ひまわり革命」に次ぐ蔡英文政権の誕生は、日台関係に新たなページを切り開いた。最近の日本人の調査で、台湾は常に「行きたい外国」のトップである。

日本のアカデミズムで、台湾は長い間、冷や飯を食わされて来た。学界の中国選好に加え、国民党支配の暗いイメージが、台湾を「日陰者」扱いにして来た。しかし、それは変化しつつある。

2・28事件では、日本の大学を卒業した台湾知識人の被害が大きかった。事件の被害認定団体によると、日本留学組は少なくとも114人に上るという。大学別で最も多いのが中央大学で、法曹界などで活躍していた十数人が巻き込まれた。

今年の2・28記念式典(台北)には、中央大学の酒井正三郎総長が日本人として初めて登壇し、哀悼の意を表明した。総長は中央大学高校生の作文を紹介した。「後輩の私たちは、先輩たちを見習って学業に励み、平和で民主的な社会を構築するために、頑張りたい」。このような展開は、日台関係が新たな次元に進み始めたことを予感させる。

<現場②>「二二八国家紀念館」(台北市中正区南海路54号)

②台北「二二八国家紀念館」の「人民力量打破禁忌」展示
台北「二二八国家紀念館」の「人民力量打破禁忌」展示

27日、台北の「二二八国家紀念館」を見に行った。2011年にオープンした。台北二二八和平紀念館とは別の建物である。

参観のポイントは、蔡英文政権の誕生によって、展示がどう変わったかである。恰好の「案内人」がいた。この日、同紀念館でシンポジウムを開いた中京大学の関係者だ。開会に先立って館内見学をしていたところに、私が遭遇した。それで、感想を聞くと「昨年は最後のコーナーの展示がなかった」という。受付でもらったパンフレット「人々の力がタブーを破る」に該当する部分だ。

これはタイトル通り、事件の真相究明を求める運動体の論理を反映した内容だ。台湾が長く戒厳令下だったため、真相究明運動は海外から始まり、1987年の台南市デモで、菊の花を手に行進した。台湾大学の学生による2・28名誉回復運動、長老教会による平和行動、嘉義での平和祈念碑の建立(1986)などが紹介されている。国家紀念館の壁にも「人民力量打破禁忌」の文字が大書されており、これが今年の展示のメーンテーマであることが分かる。

産経新聞の報道によると、蔡英文総統は28日の公式式典で、「和解は真相の上に築かれるべきだ。事件の責任の帰属を処理する」と述べた。2・28事件とその後の「白色テロ」の真相解明のため、法律を制定し「独立機関」による調査を行う方針も示した。 鄭麗君文化部長(文部相に相当)は蒋介石を顕彰する台北の「中正紀念堂」のあり方を見直すと発表しており、紀念堂は28日終日、閉館された。

一方、新北市の大学では同日未明、蒋介石の銅像を壊した学生4人が警察に拘束された。事件の見直しを通じた「脱蒋介石化」の動きは、民主進歩党の陳水扁政権(2000~08年)でもあった。国民党の洪秀柱主席は「政治屋が(事件の)傷口に塩を塗り、政権基盤を固めようとしている」と反発した。

28日、台南市でも公式式典が行われた。入手した頼清徳市長(1959年生まれ)の式辞全文によると、彼は「待ち望んだ『祖国』によって、かえって血の海に曝された」と2・28事件を規定した上で、次のように述べた。

「私たちは歴史の教訓を心に留め、(中略)台湾に立脚し、既に、運命共同体となって民主的な台湾の土地の上で、分け隔てなく平和かつ公正な新しい国を建設しているのです」

彼は台湾政治の「次代」を狙う有望政治家の一人だ。早くも2015年に、蒋介石の銅像を市内の学校や公的スペースからすべて撤去させた人物である。彼の演説が何を意味するかは、もはや、説明するまでもないだろう。

<現場③>呉園芸文中心(旧台南公会堂)(台南市中西区民権路2段)

③台南市の湯徳章紀念公園で開かれた2・28事件70周年集会。頼清徳市長(左)と王明理(右)
③台南市の湯徳章紀念公園で開かれた2・28事件70周年集会。頼清徳市長(左)と王明理(右)

1911年に建てられた旧台南公会堂は、いまも往時の威容を残す建物だ。ここでは王育霖(1919−1947)の追悼展示が行われていた。彼は台南生まれでの検察官であり、独立運動家だった明治大学元教授・王育徳(1924−1985)の実兄だ。

王育徳「『昭和』を生きた台湾青年」(草思社)に、王兄弟の青春期が詳述されている。東京大法学部を卒業した育霖は、京都で検察官を務めた。戦後の1947年3月14日、台北の自宅から特殊部隊に拉致され、行方不明になった。台南市内の書店には彼の評伝(1月刊)が、平積みになっていた。その中に、彼が作詞した日本語歌謡もあった。

♫会ふては別れる人の世の/はかなき思いを君も泣け/去りて帰らぬ青春を/送る情を君知るや♫

いかにも台南出身の青年らしいセンチメントだ。台北高校時代の作品という。最愛の妻の写真もあった。当時、26歳。将来が期待された人物だった。

東京大文学部を卒業した王育徳は、戦後、台南一中の教師をしていた。彼は湯徳章の射殺死体を目撃している。

「かれは頭部に弾丸を受けていた。茶色の背広を着て、後ろ手に縛られていた。上半身はどす黒い血溜まりの中にあった。蠅がうるさく死体の顔にたかっていた。後ろから撃たれ、うつ伏せになっていたのを、足で蹴って仰向けにしたのだそうだ。『示衆』といって、三日間こうやって見せしめにするとのことだった」

同書の「おわりに」は、以下のような王育徳の記述が再録されている。

「台湾は台湾人のもので、台湾人だけが真の台湾の主人公である。私は真理は一つしかなく、勝利をおさめるのは必ず真理であると信じている」。1964年の著作「台湾ー苦悶するその歴史」(東京・弘文堂)の一節だ。王育徳が言った「真実」が現実化してきたのを、私たちは実感できる時代になって来た。彼の妻・林雪梅は91歳の今、東京で健在である。

2・28記念集会の行われた台南の湯徳章公園。人ごみの中で私ははからずも、王育徳の次女である王明理に初めて出会った。聡明さが感じられる妙齢の女性だった。

彼女が話してくれたところによると、台南市では今後、王育徳らを記念するする展示施設の建設が計画されているという。現場で取材して、台湾と日本の狭間で闘った先駆者たちは、偉大であると感じた。彼女にそういう感想を話した。それを聞く彼女の目が、涙ぐんでいるように見えた。

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。