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◉第5回◉ 「皇室外交」の光と影
天皇陛下が「生前退位」の意向を強く示唆するメッセージを発せられた。
官邸や宮内庁は、「天皇の政治行為」を禁じた憲法の趣旨に沿い、きわめて慎重に対応している。天皇は日本国の象徴である。日本政府は従来、皇室外交を通じて皇族を「政治利用」する側面が少なくなかったが、天皇自身の意思から始まった今回の論議の展開は異例である。今後の象徴天皇制の動向に少なからぬ影響を与えると思われる。
本稿では、昭和天皇から今上天皇の時代の逸話を紹介しながら、「皇室外交の光と影」を考えたい。
<現場①秩父宮記念公園(静岡県御殿場市)>
1945年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」を弟たちはどこで聞いたか。
秩父宮(次弟)と高松宮(3弟)は、静岡県御殿場の秩父宮別邸にいた。秩父宮は肺結核を患った41年から、ここで療養生活を送っていた。弟の高松宮が同日早朝、東京・高輪の自邸を車で出発して御殿場に向かい、兄と一緒に玉音放送を聞いたのである。高松宮は12日に開かれた「皇族会議」で、天皇自身から終戦の決意を聞いていた。そして長兄の真意を伝えるために、御殿場におもむいたのだ。
富士山を臨む旧秩父宮別邸は現在、秩父宮記念公園として整備されている。登山服姿の秩父宮の銅像が愛らしい。秩父宮妃が丹精して育てた緑の庭園が美しい。終戦時のラジオ受信機が復元され、終戦記念日には邸内で展示されている。「あの声」を2人の弟宮は、このラジオで聞いたと思うと、とても感慨深い場所だ。
秩父宮は健康であれば、大いに活躍できた皇室の逸材だった。この夫妻には対米関係で重要な逸話がある。
旧知の仲だった駐日米大使ジョゼフ・グルーが日米開戦によって、翌年6月に帰国する際、横浜港に使者(樺山愛輔)を送って、メッセージと宝石箱を記念に贈ったのだ。グルー夫妻は流れる涙のために顔をあげられなかったという。メッセージの内容は明らかにされていないが、「国交回復の時は必ず来る」「お互い、その日を待ちましょう」といった内容だったようだ。終戦時に対日理解派として功績があったグルーの心証形成に、この思い出は大きく貢献した。秩父宮妃の自著「銀のボンボニエール」(主婦の友社)などに詳しい。
秩父宮と一緒に映った写真を、悪用した外国人もいる。
ソ連のスパイ・ゾルゲだ。1935年4月、満州皇帝の溥儀が来日した際、ゾルゲは横浜港に出迎えに来た秩父宮と同じ画面に納まり、この写真を「天皇との会見写真」としてモスクワに報告した。このウソが明らかになるのは、1990年代になってからだ。日本の皇族は、スパイにとっても有用なのだ。そのことを忘れてはいけない。
<現場②マニラ・マラカニアン宮殿>
今上天皇による「皇室外交」の精華は、今年1月、両陛下がフィリピンを公式訪問された時だ。
ベニグノ・アキノ大統領(当時)から前例のないほどの賛辞を受けた。彼は母親のコラソン・アキノ大統領(故人)とともに初訪日して以来、4回にわたって天皇皇后両陛下と面談してきた。退任を控えた大統領は、次のようにスピーチした。
「お目にかかるたびに感銘を受けるのは、両陛下が示される飾り気のなさ、ご誠実さ、そして優美さです。両陛下が今日までいかにして責務や義務を果たされ、多大な犠牲を払われてきたかを思うと、誰もが驚嘆せざるをえません」
「私が大統領の座につく際には、任期中に限っては自身を犠牲にしなければならないということを十分承知して、国民から負託されたこの職務を引き受けました。その私が両陛下にお会いして実感し、畏敬の念を抱いたのは、両陛下は生まれながらにしてこうした重荷を担い、両国の歴史に影を落とした時期に、他者が下した決断の重みを背負ってこられねばならなかったということです」
我々は、このような破格の賛辞を外国首脳から受ける天皇の存在を、時代の幸福と考えるべきだろう。大統領が述べた「他者が下した決断」が、軍国日本による開戦決断を意味していることは言うまでもない。天皇皇后両殿下は即位後、その重みを背負い、鎮魂と和解のための「皇室外交」を続けて来られた。
「隣の国で考えたこと」の外交官・岡崎久彦(のちに安倍首相のブレーン)が、韓国赴任の前の任地フィリピンで考えたことが、彼のアジア外交論の基礎になった。慰安婦問題で一時迷走した安倍首相にアドバイスして、日本外交を正規軌道に乗せた背景には彼の「フィリピン体験」があるというのが僕の見方だ。中国との領有権問題を抱えるフィリピンは、日本のアジア外交にとって、重要な国家である。
知り合いの元駐日韓国大使の言葉も忘れがたい。
彼は「天皇皇后両陛下のように素晴らしい現代アジア人に会ったことがない」と話してくれた。その内容は詳しくは書けない。こういった彼の感想が遠因となり、駐日大使を解任されることになったからだ。彼のような「天皇観」は、韓国ではタブーである。しかし李明博大統領が竹島上陸を敢行した後、ひとしきり「天皇の謝罪」に言及したのとは対照的に、彼は人間的にも尊敬できる隣国人だ。
昭和史研究者の保阪正康は「天皇が時代を作る。天皇に時代が濃縮される」と書いた。至言であろう。原武史(明治学院大学教授)は美智子皇后を「最高のカリスマ的権威を持った政治家」と評した。全くもって同感だ。
<現場③アムステルダム「ホテル・オークラ」>
しかし既に触れたように、「皇室外交」は時として、外国人に利用されかねない。
ここでは、その実例として「美智子皇后と慰安婦問題」の逸話を紹介する。「日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」という副題がついた、マルガリート・ハーマー著「折られた花」(新教出版社、2013)が、そのネタ本だ。ハーマーは、オランダ人慰安婦救済のために作られた公的団体の代表者だ。アジア女性基金による支援策を実施するため、オランダ側で尽力した。
2000年5月、日蘭修好4百周年記念として、天皇皇后両陛下がオランダを公式訪問された。彼女の記述によると、以下のようなことがあったという。
――私が署名した極秘の書簡が、皇后の親友を知るという人に手渡された。この人はその書簡を皇后の親友に手渡し、その親友を通して皇后に渡そうという手はずが整えられた。その書簡には「リア(オランダ人慰安婦)の悲しい人生のこと」などが述べられていた。ところが、この書簡の存在がオランダの新聞社に漏れ、「慰安婦、日本の皇后に助けを乞う」という大見出しで報道された。(中略)
アムステルダムのホテル・オークラで開かれた両陛下主催のレセプションに招待された。会場ホールにしばらくいると、「池田大使夫人が私の所にやってきて、ついて来るように言った。皇后から私と話をしたい旨をあらかじめ伝えてあったらしかった」。
彼女はこの時の皇后陛下とのやりとりを、詳細に著書に記述している。天皇皇后との会話内容を公開するのは、日本ではタブーだが、この外国人にとってはおかまいなしだ。彼女は、美智子皇后のことを「このユニークな女性」(村岡崇光訳)と表記した。
この本によると、皇后陛下はリアと彼女の行方不明の子どもたちの名前をはっきり覚えており、「日本赤十字社と連絡を取り、二人を捜し出すよう指示した」という。さらに美智子皇后は「オランダにはこのような悲しい過去を持つ女性が他にもいるのか」と尋ねた。皇后は彼女の手を両手で握りしめたまま「日本がこの女性たちになしたことを詫びた」という。
この会話の真偽は確認しようもない。皇后との会話の「暴露」が、外交的には危うい局面で展開された、と解釈するのは私だけだろうか。(文中敬称略)
下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。 |