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外交の現場を行

◉第4回◉ 日米海軍「海の友情」と地政学

オランダ・ハーグの仲裁裁判所の判決は、南シナ海の領有権紛争に、国際法による初の判断をもたらした。当該海域における中国の「主権」を認めず、中国による独自境界線も「根拠なし」と認定した。海洋国家(日米)と大陸国家(中国)の対立構図は、日米海軍の「海の友情」の意義を改めて想起させるものだ。

 

<現場1>フランス料理店「スコット」(東京都中央区日本橋浜町1-9-1)

  sukotto20160715ここは鈴木貫太郎(終戦時の首相、元海軍大将)が愛した、フランス料理レストランである。数寄屋造りの建築。和室、柿右衛門の皿・・。ランチ1万円のステーキを食してみて、時間の厚み、味の蓄積は違うと実感した。

海軍の親睦施設「水交社」で修行した先代の湖東喜佐夫が、昭和14年に開店した。鈴木内閣当時は、官邸で腕をふるった。昭和20年8月15日未明、首相官邸が襲撃を受けた時も、鈴木と行動をともにした。ひいきの客には米内光政、井上成美など海軍人脈のほか、横山大観、菊池寛らの文化人も多かった。知る人ぞ知る「貴賓館」だ。

2代目当主・湖東義久さん(71)に、思い出の常連客を聞いた。

まっさきにジェームズ・アワー(74)の名前があがった。さすが海軍御用達のレストランだ。彼は阿川尚之「海の友情ー米国海軍と海上自衛隊」(中公新書)の主人公である。日米両国「海軍」の深い交流を書いた労作だ。

アワーは米海軍出身の大学教授、元国防総省日本部長だ。海軍大将・井上成美をとても尊敬している。井上は敗戦責任を痛感し、戦後は横須賀の片田舎で孤塁を守った。1975年に亡くなった。葬儀で長時間正座し追悼していたのが、青年時代のアワーだ。感銘を受けた遺族が、昭和天皇から頂いた「菊の紋章」入りのカフスボタンを贈呈した。彼は「家宝にする」と感激した。

子供のいないアワーは、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争の孤児3人を養子にして育てた。日本からの養子(フランシス・悌一郎・アワー)は、野田首相や安倍首相が訪米した時、儀仗隊長として出迎えた。「アワーさんは花も実もある軍人です」。湖東がそう称賛するのも無理はない。ミドルネーム「悌一郎」は、アワーが尊敬する海上自衛隊の中村悌次(第11代海幕長)と内田一臣(第8代海幕長)から1字づつ取った。

「スコット」では毎年8月14日夜、迫水久常(鈴木内閣の書記官長、元衆院議員)らが集まり、往時をしのんだ。出席者には阿南惟幾(終戦時に自決した陸軍大臣)の妻・綾もいた。彼女は昭和46年に出家したが、奈良薬師寺で得度した後、先代に宛てたお礼の手紙も残っている。

芳名録を見ると、「安倍晋三」の名前があった。その他に、どんな名前があるのか、ページをめくるのは、食後の楽しみである。

<現場2>駐日米国大使公邸(東京都港区赤坂1-10-5)

saitouhusai20160715「スコット」の上客だった鈴木貫太郎は、波瀾万丈の人生を送った。

よく知られているように、侍従長当時には2・26事件(1936年)で襲撃され、瀕死の重傷を負った。暗殺された重臣のひとりに、内大臣の斎藤実(元首相)がいる。鈴木(海軍兵学校14期)も斎藤(同6期)も、海軍出身である。

朝鮮総督を2度も務めた斎藤が、終戦時に対日柔軟派だった元駐日米大使のジョゼフ・グルーと、きわめて懇意だった事実は意外に知られていない。斎藤夫妻(写真・左)は前夜、米大使公邸での晩餐会に招かれており、翌朝、青年将校らによる凶行に遭遇した。

グルーの「滞日十年」によると、晩餐会での食事の後、斎藤夫妻はグルーがMGM東京支社から入手した映画「浮かれ姫君」(原題「お転婆マリエッタ」)を楽しんだ。斎藤はトーキー映画は初めてだった。深夜12時過ぎて帰宅し、翌朝、凶弾に倒れた。「私を殺してください」。斎藤夫人(春子)は銃口に立ちふさがり、負傷した。

凶報を知ったグルーは翌日、戒厳令下の東京を車を走らせ、斎藤邸に弔問に出かけた。春子は英語が達者だった。「主人は映画を楽しみ、とても満足しておりました」。春子の気丈な応対に、グルーは深い感動を覚えた。

斎藤は朝鮮総督に初赴任した1920年、京城・南大門駅前で朝鮮人テロリストの老人に爆弾を投げつけられた。この時は難を逃れたが、老人は死刑になった。斎藤が老人の遺族に定期送金していたことが明らかになるのは、彼が2・26テロに倒れて以後の話である。テロリズムと戦争の時代にあって、斎藤夫妻とグルーが築いた友誼はやがて、米国の対日講和策につながったと言って良い。

地政学の知識によれば、日米の戦争は「海洋国家」同士が激突した戦争だ。

この学説によると、大陸国家と海洋国家の対立は、その中間にある半島部分を起点にして起きる。朝鮮から満州にかけて拡大した日本の大陸利権が、日米戦争の遠因だった。いま南シナ海で構築されつつある大陸国家・中国の利権は、今後、海洋国家(米日)連合とどう対立して行くのか。亜大陸国家のインドは、どう対応するのか? 北朝鮮の核開発はどう影響を与えるのか?

<現場3>佐世保基地(長崎県佐世保市)

kaigunkiti20160715戦後日本は「戦死者」を出していない、という言説がある。これは間違いだ。

朝鮮戦争の時、連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安庁が1950年10月に「日本特別掃海隊」を派遣した。46隻の掃海艇が朝鮮の元山、仁川、鎮南浦、群山沖に出動し、行方不明1人、重軽傷18人の犠牲を出した。

これは、今ではそこそこ知られた事実だが、最初に史料を発掘したのが前出のアワーである。国際関係大学院「フレッチャースクール」で修士論文を書いていて、ワシントンの国立公文書館で米海軍の公式記録を見つけたのだ。

アワーは佐世保を母港とする掃海艇に勤務経験があった。佐世保では「市会議長の娘と交際した」(「海の友情」)という。さらに博士論文では海上自衛隊と帝国海軍の連続性に着目し、「よみがえる日本海軍」(時事通信社、1972)を出版した。

私も佐世保には1978年秋から1年半、勤務した。

当時は、原子力船「むつ」の佐世保回航と、佐世保重工業(SSK)のストライキでてんてこ舞いだった。ソ連の空母「ミンスク」が黒海から極東艦隊に回航した時には、台湾フィリピン間のバシー海峡で、毎日新聞社機で「迎撃」した。運良く特ダネ写真が撮れた。もはや時効だから言うが、これは海自佐世保総監部トップのアドバイスのおかげである。毎日機の航続距離と「ミンスク」の航行速度を丹念に計算し、合致するポイントで捕捉した。

米国の原子力空母「カールヴィンソン」などが、佐世保に寄港するたびに反対デモがあった。米軍岩国基地や空母「ミッドウェイ」に核搭載疑惑があった。1980年、環太平洋合同演習「リムパック」に海自が初参加すると、それも大きなニュースになった。ことしの「リムパック2106」は6月30日から8月4日まで、史上最大の27カ国が参加した。今はさしたるニュースにならない。

6月末には日米印合同演習が沖縄東方海域で行われた。インド艦船4隻が佐世保港に入港した。

3カ国合同演習は、3年連続5回目である。海上演習には、海自のヘリ搭載型護衛艦「ひゅうが」や米原子力空母ジョン・ステニスなど計11隻が参加した。記者会見で、中国の南シナ海での人工島造成をめぐって、インド海軍東部艦隊司令官は「いかなる状況にも対処できるよう共に訓練する」と述べた。

インドの台頭が、「ポスト中国」の時代を象徴するものになるだろう。(文中敬称略)

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。