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外交の現場を行

◉第12回◉日韓映画交流の創始期

「韓国映画は、とりわけ、よく時代を反映する」

 

韓国映画の「国民俳優」の別名がある安聖基(アン・ソンギ)氏が数年前、私のインタビューに答えて、語った言葉だ。1952年生まれ。金綺泳監督の名作「下女」(1960)に子役で出演し、1980年からは、途切れなくトップスターとして活躍してきた。

 

その彼が昨年、思わぬ苦難に直面した。副執行委員長を務めて来た釜山国際映画祭が、地元市当局との対立などから、中止の危機に見舞われたのだ。この混乱の背景には、韓国映画界の左傾化動向に神経を尖らせるパク・クネ政権の意向もあった。韓国政府による「映画界ブラックリスト」作成という醜聞が後に発覚したことで、それは明らかになった。

 

韓国映画に、一時期の「韓流シネマ」の勢いはなくなった。しかし昨年もゾンビ映画「釜山行き」(原題)が観客1000万人を突破するなど、国内の大衆文化への影響力は甚大である。テロリスト映画「暗殺」(2015)、慰安婦映画「鬼郷」(2016)、強制連行映画「軍艦島」(2017)といった反日情緒の映画も続出している。

安聖基氏の冒頭の言葉に、私が強く首肯する理由でもある。

<現場①>映画館「団成社」跡(ソウル特別市鐘路区廟洞56番地)

団成社(1921年)
団成社(1921年)

 

1919年、朝鮮半島で「3・1独立運動」が起きた。中国の「5・4運動」とともに、民族自決を求めた大衆運動のひとつだ。あと2年で100周年を迎える。この年は実は、朝鮮半島で初めて映画が上映された「韓国映画元年」でもある。この同時性は、植民地支配(異民族支配)が民族意識を覚醒させ、同時に近代文明の基礎を作ったという両義的な側面を、よく代弁している。

 

同年10月27日、ソウルの劇場「団成社」で、映画「義理的仇討」(全8幕28景)が上映された。1895年、フランスのリュミエール兄弟によって、シネマグラフが発明されてから24年経っていた。日本での初上映は1898年だ。植民地朝鮮では、演劇の合間に俳優の演技を写したフィルムを映写する「連鎖劇」という方法で、映画が観客の前に登場した。

 

同時上映の実写フィルム「京城全市之景」は、ソウルの風景を収めた記録映画だ。この2本はともに、宮川早之助という名の日本人技師によって撮影された。観客の反応は、熱狂的だった。「200余名の妓生を含め、初日の夜から劇場の1、2階を埋め尽くした観客たちは、映写が始まると、画面に現れるソウルの風景と俳優たちの実演を見て、拍手し喝采した」(韓国の映画史家・金鐘元の著述から引用)という。

 

「団成社」は、大韓帝国末期の1907年に開館した。当初は朝鮮人所有だったが、1917年には日本人興行主の田村義次郎に所有権が移転した。田村は翌年、同館を4階建て(写真①)に改築し、経営を朴承弼した。朴は映画制作にも関心が強く、彼が宮川に撮影を委嘱して作った作品が「朝鮮映画第1号」となったのである。

 

「日本映画年鑑大正13・14年」によると、団成社の観客定員数は960人だった。かなりの大型館だ。お抱えの弁士が6人いた。羅雲奎監督「アリラン」(1926)を初上映したのも、この映画館だった。フィルムが発見されていないことから、「伝説の反日映画」として有名だ。

 

2001年9月、同館は戦前からの建物の解体作業に入った。私は解体前の1993年4月、林権澤監督の名作「西便制」の封切り上映を、この映画館で見た。

 

「親子3人が農道を歩きながら、『珍島アリラン』を歌うシーンは、ワンカットで5分40秒も続く。音楽映画としても出色の出来だ。韓国各地でロケした四季折々の自然も見事だった」(毎日新聞夕刊「憂楽帳」)

 

しかし、団成社はいま、存在しない。2005年に地下4階、地上9階の大型ビルとして新築落成したのだが、2008年に倒産した。大型ビルは周囲を木壁に囲まれ、醜悪そのものだ。近くを通るたびに、盛況だった往時を思い出し、寂しい気持ちになる。

 

「朝鮮映画第1号」を撮影した宮川早之助は、孫に当たる女性によると、彼は明治17年(1884)に鳥取県で生まれた。同41年(1908)、日本最古の映画会社のひとつ「M・パテー商会」(梅屋庄吉社長)に入社し、大正2年(1913)、「天然色活動写真」(略称・天活)撮影部に移ったという。朴承弼は「天活」経由で欧米の映画を輸入しており、そこから宮川との縁が生まれたと見られる。

 

<現場②「M・パテー商会百人町撮影所」跡(東京都新宿区百人町2−23)>

「Mパテー商会」社長宅・撮影所の跡地

JR新大久保駅周辺は、東京でも有数のエスニック・タウンである。

かつて「韓流の街」として注目された。最近はベトナム人やネパール人が急増している。この街ではアジア各国の映画を上映する「新大久保映画祭」が毎年秋に開催されている。日本映画史から見ても興味深い。上記の宮川早之助が入社した「M・パテー商会」の梅屋庄吉社長宅と撮影所が、この地域にあったからだ。「M」は梅屋、「パテー」は業務提携していたフランスの映画会社だ。

 

 

 

JR大久保駅北口から、徒歩1分。新宿区百人町2ー23。そこが「M・パテー商会」の跡地だ=写真②。

3000坪あったというから、かなり広大である。駅前の横断歩道を渡り、「富士そば」の路地を入ると、ケバブの店の隣に、キリスト教婦人団体「矯風会」の建物があった。庭には売春防止法施行の記念植樹の桜の古木。写真を撮っていると、中年女性から誰何された。どこかピリピリした空気がある。この一帯が嫌韓デモのメッカであるのと関係があるのだろうか? 「矯風会」の建物の一部は、東京交響楽団が練習場に使っている。その裏手はヘルスであり、ラブホテルもあった。さらに歩くと、住宅や教会、スポーツ会館が混在するという不可思議な空間だ。

詩人の西條八十の実父が所持していた敷地だという。近くのラブホテルから出て来たカップルが、路地を歩いて行く。「Mパテー商会」は「日活」の前身のひとつである。最近、NHKで日活ロマンポルノを再評価する番組が放映された。この映画会社の持つ「青春の隠微さ」は、誕生の地の血脈を受け継いだのだろうか。

梅屋は、知る人ぞ知るアジア主義者であり、中国の革命家・孫文の支援者だった。

シンガポールの事業で成功した梅屋の自宅には、孫文が出入りし、千葉県にあった別荘にも彼の姿が見られたという。梅屋については、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」(講談社)などに詳しい。彼の生涯は、明治の男らしい、アジア遍歴に彩られている。

 

明治元年(1868)、長崎県で生まれた。土佐の貿易商・梅屋家に養子に行ったが、米相場に失敗して中国へ渡り、香港で貿易商としての地位を築いた。明治28年(1895)孫文と知り合い、明治38年(1905)ごろ帰国し、「M・パテー商会」を設立した。孫文の辛亥革命の記録映画を作り、白瀬中佐の第二次南極探検のドキュメンタリー映画「日本南極探検」(1912)を制作した。映画界での活躍も目覚ましいものがある。

 

梅屋が1908年に公開したサイレント時代劇「旧劇 太功記十段目 尼ケ崎の段」(1908)は、上映17分だけ現存している。百人町に撮影所が出来る1年前の制作のため、近隣でロケーション撮影されたと見られる。

 

大正2年(1913)、孫文は袁世凱に敗退し、日本に亡命して来た。孫文と宋慶齢の結婚式が1915年、大久保百人町にあった梅屋の自宅で行われたことは、とりわけ記憶しておきたい。近代日本の「アジア主義とキネマ」が、ここで合流したのだ。

 

大久保一帯は、大正時代から敗戦まで、梅屋庄吉のような実業家や華族の住宅街として知られていた。

 

「大久保文士村」という呼び名もあった。「樹木に囲まれた閑静な住宅街で文筆家や芸術家の集まる土地」(川本三郎「郊外の文学誌」)だったのである。しかし、東京大空襲によって、その大部分は焼失した。朝鮮戦争の頃には、米兵と街娼たちが目立つ「夜の街」になった。現在のエスニック・タウンが誕生する背景には、日本の敗戦と植民地喪失があったのである。

 

<現場③朝鮮映画「授業料」(崔寅奎監督)>

植民地朝鮮映画の傑作「授業料」(1940)

植民地朝鮮で作られたベストワン映画を挙げるとなれば、私はためらいなく、崔寅奎監督「授業料」(1940)=写真③=だと言いたい。「世界文化遺産」に指定された華城華虹門の往時の姿が、この映画には貴重な映像記録として登場する。

 

長らく「幻の作品」だったのだが、2014年、北京の中国電影資料館の倉庫から、フィルムが見つかった。翌年12月には、東京でも初上映された。この映画の詳細について、月刊誌「正論」(2016年2月号)で紹介した。ここでは「日韓映画交流」の観点から、いくつか付記したい。

 

崔寅奎(1911〜?)は、朝鮮映画界が生んだ気鋭の監督だ。

 

平安南道生まれ。韓国のデータベースなどによると、平壌高等普通学校を中退した跡、録音技術を学び、さらに大阪で運転手をしながら、京都の撮影所への就職を目指したが、挫折し帰国した、とされている。(日本での経歴は裏が取れていない)。1939年に、ジュリアン・デュヴィビエの作品「望郷」(1937)をイメージしたアクション映画「国境」で監督デビューした。京城の浮浪児を扱った「家なき天使」(1941)はフィルムが残っており、なかなかの佳作だ。

 

戦後は「自由万歳」「罪なき罪人」「独立前夜」の民族主義映画3部作を作った。しかし朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮軍に拉致され、行方不明になった。彼が作った映画以上に劇的な人生を歩んだ映画人なのである。

 

戦時中の国策映画「望楼の決死隊」(1943)では、戦後、共産党員に転じる今井正監督を、助監督役として支えた。この映画は、朝鮮と満州の国境で撮影された。秀逸なのが、戦後日本映画界の「永遠の恋人」だった原節子が、国境警備隊長夫人として出演していることだ。「匪賊」の来襲を受け、彼女は自動小銃をぶっ放して応戦する。アクション映画としても、きわめて面白い。

 

崔寅奎が監督した「愛と誓ひ」(1945)は、朝鮮人少年を特攻隊に駆り立てる映画だ。戦後の名優・志村喬が国粋的な校長役で登場する。

 

「授業料」の朝鮮側女優陣も豪華だ。。伝説の女優・文藝峰が母親役で出演する。戦後、38度線を越えて北朝鮮に行き、金日成から「人民俳優」の称号を与えられた。彼女を「朝鮮的美人」の代表とすれば、金信哉は「朝鮮的アイドルの原型」である。彼女はプレイボーイだった崔監督の賢夫人でもあったが、1980年代に渡米し、そこで亡くなった。

 

私は「授業料」を見て、とても驚いた。

 

貧しさのために学校の授業料が払えない朝鮮少年、という映画の主題そのものが、強い時代批評を伴っていたからだ。彼の悲哀を、映画は愛情を持って描いていた。この作品の原作は、朝鮮全土の小学生から募集した「綴り方」の優秀作だった。これを朝鮮総督府図書課で映画検閲に当たっていた西亀元貞(にしきも・とさだ)という人物によって映画化が企画された。

 

これらの諸点は、「植民地支配下の映画制作」をめぐる戦後的イメージを完全に裏切るものだ。

 

西亀は、崔寅奎「家なき天使」でも脚本を書くなど、朝鮮映画界に積極的に関与して来た。戦後は、黒澤明との共同脚本のほか、成瀬巳喜男監督の作品など、1961年までに12本の映画脚本を書いた人物であることを、私は確認した。彼はなぜ植民地時代に、こんな作品を作ったのか。それがなぜ許されたのか。これに答える研究成果は、まだ、どこにもない。。

 

戦前戦後期の朝鮮映画を見て実感するのは、日本支配期の朝鮮のリアルな実像が現代に伝わっていないのではないか、という素朴な疑問だ。映画は韓国でDVD化された。原作の「綴り方」は、他の応募作品とともに、韓国中央図書館で誰でも閲覧できる。ネットでもダウンロードできる。今後の研究成果を待ちたい。

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。