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◉第3回◉ 「スパイ・ゾルゲの亡霊」
<現場①>国立国会図書館(千代田区永田町1丁目)
篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」(2003)にこんなシーンがある。
ドイツの新聞記者ゾルゲが、ドイツ大使と懇談している。窓越しに国会議事堂が見える。あれっ、と思うが、ここは戦前の駐日ドイツ大使館の一室なのだ。現在の国立国会図書館の位置に、戦前はドイツ大使館があった。
大使館の場所にも、世界政治が色濃く反映する。戦後になると、旧ドイツ大使館はGHQによって接収され、復興したドイツは広尾の一等地に大使館を建てた。
旧ドイツ大使館は絶妙の場所にあった。裏側に、陸軍省や陸軍参謀本部があったからだ。昼休みともなると、参謀本部の高級将校たちが昼食を誘いに来る。大使館内に居室があったゾルゲは、居ながらにして、ドイツと日本の極秘情報を得た。
参謀本部の馬奈木敬信大佐は、戦後、「役所が庭続きみたいなので、何かあるとオット(ドイツ大使)に『めしでも食わんか』と声をかけていた」と語っている。馬奈木大佐はその後、中将まで出世した。脇の甘い日本陸軍が大敗するのも、当然だろう。
ドイツ大使のオットは、妻をゾルゲに寝取られた人物として、歴史に記録されている。映画にも、そのシーンが出て来る。希代のスパイは、希代のプレーボーイでもあった。
<現場②>高級宝飾店「Cartier」(中央区銀座5丁目)
「ひと目見たときから、ぞくぞくするほど素敵だったわ」
これは、歌手・美輪明宏によるゾルゲ賛辞だ。美輪は戦前、ドイツ酒場「ラインゴールド」で、ゾルゲを何度も見かけたという。現在「Cartier」がある場所だ。「君となら一生をこの東京で送りたい」。ゾルゲは山本権兵衛伯爵(元海軍大臣)の孫娘も、言葉巧みに誘惑していた。
ゾルゲに尽くし通したのが、愛人の石井花子だ。彼女は「ラインゴールド」で働いていた。ゾルゲが絞首刑になると、彼の遺骨を掘り返し、多摩墓苑に立派な墓を作って、埋葬した。
ゾルゲは「20世紀最大のスパイ」と呼ばれる。確かに、そう呼ばれるにふさわしい「活躍」をした。最大の功績が、日本軍部が「北進」を放棄して「南進」を決定した情報をつかみ、モスクワに通報したことだ。スターリンの対独戦争勝利に、決定的な情報になった。
彼のパートナーが、朝日新聞記者だった尾崎秀実(ほつみ)だ。上海で知り合い、日本でも情報を交換した。尾崎が近衛文麿内閣の嘱託に起用されると、ゾルゲの日本情報は格段に精度を増した。新聞記者がスパイになるケースは頻繁にあるが、尾崎が典型だ。
朝日新聞の名物記者だった長谷川煕は『崩壊・朝日新聞』(2015)で、尾崎が中国共産党支援のために、「支那戦線拡大」の記事を書いたことを指摘した。「思い込んだある観念から日本を裁き、その観点から反日連携まで海外と企てる」。彼の尾崎批判は、朝日の慰安婦報道への批判と通底する。尾崎は「ゾンビ」になって、よみがえったのかーー。ここが「ゾルゲ・尾崎事件」が問いかける現代的な意味だ。
<現場③>多磨霊園(東京都府中市・小金井市)
5月、ゾルゲの墓を訪れた。尾崎秀実もここに眠る。ゾルゲの墓は、なんと三島由紀夫(平岡家)の墓と近かった。わずか40歩の間隔だ。ゾルゲの墓碑銘を見ながら、憤激しない訳にいかなかった。墓碑銘の歴史観は、受け入れられないからだ。
「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」
これは典型的なコミンテル史観だ。ソ連が一方的に国際条規を破り、日本人将兵を極寒の地に拉致し、他国の領土を侵害した事実に触れない社会主義祖国史観である。
ゾルゲ処刑70周年の一昨年11月7日、このお墓では、駐日ロシア大使や「ゾルゲ記念学校」(大使館付設)の生徒たちが出席して、追悼式が行われた。ロシア大使館のツイッターが写真付きで報道した。こんな話は、日本の新聞には滅多に載らない。
鈴木貫太郎内閣は敗戦直前、ソ連を通じた交渉に希望を託し、ソ連の動きを楽観視。突然の不可侵条約破棄と満州侵攻を許した。鈴木はスターリンを「西郷隆盛に似たところがある」と買いかぶっていた。誰がそんなウソ知識を鈴木に吹き込んだのか。
朝鮮研究の先駆者である森田芳夫が編集した『朝鮮終戦の記録』(巌南堂書店)の資料編第3巻「北朝鮮編」には、同じ構造の「誤判の実例」が記録されている。敗戦直後の鉄原(38度線の街)で書かれた避難民の日記だ。
8月27日には「朝鮮人側の知己来り。ソ連軍極めて穏健なる由」と楽観していた。ところが、ソ連軍進駐後の9月1日になると「夜間となれば、婦女子を強制的に連れ出し、人道的に見て言語に尽くしがたし」と情勢は急変した。
戦後もこの誤判の心理は「中国、ソ連、朝鮮は平和勢力」と見なす倒錯に直結し、原水爆禁止運動の混乱や北朝鮮による日本人拉致を引き起こしたと、私には思える。
多摩墓苑には、その後も時々行く。三島由紀夫(ナショナリストの小説家)とゾルゲ(共産スパイ)。2人の墓を往復しながら、「国家と国民の運命」を考える。(文中敬称略)
下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。 |