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◉第2回◉東京裁判の舞台裏・・・「ハットリハウス」

<現場>港区白金2丁目5−36「ハットリハウス」

芝白金の三光坂一帯は、東京の代表的な高級住宅街である。

地下鉄「白金高輪」駅から西へ恵比寿方向へ歩く。5分もしないうちに、交差点の左側に急な坂が現れる。これが三光坂だ。坂下にある標識によると、近くにある専心寺にあった三葉の松にちなむ名称だ。「三鈷(さんこ)坂」と呼ばれていたという。

「ハットリハウス」は、この坂道を登り詰めた高台の左側に広がる大邸宅である。東京裁判の判決が3カ月かけて、極秘のうちに翻訳された。高さ2メートルほどのレンガ塀。邸内の柑橘系の樹木の向こうに、2階建ての洋館が見える。正門はいつも閉じられたままだ。

写真①「ハットリハウス」。木立の向こうに洋館が見える。

写真①「ハットリハウス」。木立の向こうに洋館が見える。

 

「結審から四カ月たった八月、芝白金三光町の宏壮な服部ハウスに、突如、鉄条網が張りめぐらされた。KEEP AWAY (近寄るべからず) 十メートル間隔のプレートが、ものものしい」山崎豊子「二つの祖国」(新潮社、1983)下巻

在米日本人の悲劇を描いた小説の舞台として、ハットリハウスが登場する。山崎豊子は「東京裁判の判決文を日本語に翻訳するための、いわば監禁所であった」と書いている。判決内容が漏れないように、日本語通訳、速記者、女性タイピストらが「監禁」されたのだ。日本人関係者は電話もかけられなかったという。

<SEIKO創業者の大邸宅>

ハットリハウスは、服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者・服部金太郎(1860ー1934)が、1933年(昭和8年)に建てた邸宅である。設計者は帝国ホテル新本館などを手がけた高橋貞太郎。敷地面積1万6815平方メートルというから、東京ドームの約3分の1の大きさだ。戦後、GHQ連合軍総司令部の進駐に伴って接収され、1945年12月から1年間は、キーナン首席検事ら10人の検事たちが住んでいた。

判決の翻訳作業が始まった1948年8月当時のハットリハウスの模様は、小林正樹監督の映画「東京裁判」(1983)でも確認できる。

正門から入る米兵の姿、閉じられる正門、邸内の歩哨。さらに洋館の一室で作業中の姿が、窓越しに映像で記録されている。「被告たちの運命を決する判決書の翻訳作業は、芝白金の服部時計店の邸宅ハットリハウスで行われていた。東大教授・横田喜三郎を中心とする翻訳者、速記者、女性タイピストは外部に判決が漏れるのを防ぐため、一歩もハウスの外に出ることを許されなかった」。佐藤慶のナレーションがものものしい。

写真②ハットリハウスの門を閉める米兵(映画「東京裁判」から)

写真②ハットリハウスの門を閉める米兵(映画「東京裁判」から)

 

4月中旬、現地におもむいた。

ハットリハウス正門前から10メートルほど三光坂を降りて、右手に折れ、路地を進むと裏門があった。洋館の東隣には、平屋の日本家屋があるのがわかった。しかし、塀と樹木に遮られて、全容は確認できない。塀の上には30センチほどの鉄条網。さらに路地を進むと、その東隣には2階建ての和洋折衷の家屋が見えた。

山崎豊子の著書によると、洋館には米人言語部長、同言語裁定官、日本人通訳、速記者が詰め、日本家屋には27人の女性タイピストが入っていたという。

しかし、彼女の記述には重要な人物の名前が脱落している。

<田中隆吉(元陸軍少将)も匿われていた>

田中隆吉(元陸軍少将)だ。

東京裁判で検察側証人として登場し、「日本のユダ(裏切り者)」と批判されるなど、毀誉褒貶の激しい軍人だ。彼はハットリハウスの日本人家屋に「監禁」されていたのだ。検察側から食料その他の便宜を供与されていたという。

その事実を明らかにしたのは、ロバート・ドナハイ元検事である。2000年夏、当時85歳だったドナハイは、ワシントンでニューヨーク在住のライター青木冨貴子に会い、田中がハットリハウスに隣接した日本家屋の「ノムラハウス」に裁判中、居住していたと語った。ドナハイは田中担当の検事だった。(青木「731」新潮社、2005)

現地で確認すると、ノムラハウスはハットリハウスに隣接する平屋の日本家屋のようだ。ドナハイによると、「もう一軒の洋風の家にはインド人の護衛がいたように思う。インドのパル判事が住んでいたわけではないが・・」という。

ノムラハウスは1948年8月になって、27人の女性タイピストが住んだ日本式家屋と同一の建物と見られる。しかし、田中が住んでいた時期は1946年夏であり、居住時期が違う。彼女たちと田中が「同居」していたことはありえない。

写真③邸内の東側にある和洋折衷の2階建て。塀には鉄条網。

写真③邸内の東側にある和洋折衷の2階建て。塀には鉄条網。

 

ただ1946年当時、ノムラハウスに隣接するハットリハウス本館にはキーナン首席検事らが居住していたわけであり、田中の出廷前後にはハットリハウスとノムラハウスを行き来して、駆け引きに満ちた裁判の事前作業が行なわれたのは間違いはない。

田中は東京裁判で検察側に「協力」したことで知られているが、その動機は「少数者に責任を負わせ、天皇を助ける」ためだったとも言われる。児島襄「東京裁判」などで流布された説だ。検察側トップと切り札の証人が一時期、同じ邸宅内に居住していた事実は、「ノムラハウス」の名も含めて、よく知られていない。特筆しておきたい秘話だ。

昭和史家・秦郁彦は昭和28年、青山の裏通りに隠棲する田中隆吉を訪ねた。身長180センチほどの大きな男だった田中は、薄暗い室内で怯えたような表情をみせ、「(刑死した)武藤(章・軍務局長)の幽霊が出るんだ」とつぶやいたという(秦「昭和史の軍人たち」文藝春秋)。人間の生死にかかわる策謀の結末は、哀れというしかない。

<現在はシンガポール企業が所有>

再び、現地を歩く。

ハットリハウスの正門を通り過ぎて平らな道になると、左手に降りて行く細い坂道がある。高さ5メートルほどのコンクリート塀が20メートルほど続く。やがて建設工事現場が現れた。

塀に掲示された標識を見ると、昨年12月から地上27階建て(高さ約100メートル)の高層マンションが建設中だ。建築主は三菱地所レジデンスと野村不動産。設計と施工は竹中工務店。ハットリハウスの隣接地であり、竹中工務店が所有していた。ここには同社の迎賓館「竹友倶楽部」(日本家屋)があった。いま庭園の樹木は切り倒され、コンクリートの基礎工事部分が乾いた姿をさらす。

「Google Earth」の航空写真を見ると、ハットリハウス一帯が緑陰に縁取られた高級住宅街の空間であることが一目瞭然だ。

写真④上空から見たハットリハウス(左の洋館)敷地。その隣がノムラハウスと見られる。(@Google Earth)

写真④上空から見たハットリハウス(左の洋館)敷地。その隣がノムラハウスと見られる。(ⓒGoogle Earth)

ハットリハウスは2014年、セイコーHDから305億円でシンガポールの大手不動産デベロッパー「シティ・デベロップメント」に売却された。坪単価で約600万円の超高額と、多くのマスコミが報道した。買収した企業側は「高級コンドミニアムを建設するポテンシャルがある。服部氏が守ってきた歴史的な意義を盛り込みながら、計画していきたい」と当時、語っていた。いま関係筋によると、ハットリハウス洋館などを保存した形でのマンション建設の構想が練られているという。

ハットリハウスでは、日本国憲法の草案起草作業も行なわれた、という風説がある。しかし、これは事実ではない。

井朝日放送の元プロヂューサーである鈴木昭典(87)は「東京裁判の翻訳という秘密めいた作業と、日本国憲法の草案がGHQの密室で行なわれたイメージと重なり、誤解されたのではないか」と推測する。彼は1993年、TVドキュメンタリー「日本国憲法を生んだ密室の9日間」(放送文化基金賞・奨励賞)を制作した。その際、多くのGHQ関係者にインタビューしたが、「憲法草案作りでハットリハウスが利用されたとの話は聞いたことがない」。

憲法草案作りは昭和21年2月4日からの9日間であり、その時、ハットリハウスにはキーナン首席検事ら東京裁判検事団が居住していた。憲法起草の担当者らとは無関係だ。鈴木が著書で明らかにしたように、憲法草案作りはGHQのあった日比谷の第一生命ビル6階の民政局で「日本人立ち入り禁止のもとで」行なわれたのである。これが真相だ。

このような風評を生んだのも、ハットリハウスが持つ秘密の匂いによるものに違いない。

東京裁判をめぐっては、今もって、「勝者による裁判」との批判が絶えない。やがて完成する高層マンションの住民の国籍はどうなのだろうか?彼らはどういう心境で、そこからの光景を眺めるのだろうか。(文中敬称略)

下川正晴の顔写真 (2)   下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。

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