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◉第1回◉ 「テロリスト伊藤博文」の懺悔

  21世紀は9・11テロで開けた。いまも続くIS(イスラム国)の爆弾テロは、今世紀のガン細胞そのものだ。

 20世紀の初頭、朝鮮人テロリスト安重根の銃弾に倒れた初代首相・伊藤博文が、若き日にはテロリストだった事実は、意外に知られていない。彼はテロリスト群像のひとりである。

 取材に訪れた4月初旬、東京都内の事件現場2カ所は、テロの陰惨なイメージとはほど遠く、はなやかな桜が満開の季節を迎えていた。  

現場品川区北品川の権現山公園一帯(御殿山地域の一角)

 北品川の権現山公園。高杉晋作や伊藤博文らが建設中の英国公使館を焼き討ちした現場。

北品川の権現山公園。高杉晋作や伊藤博文らが建設中の英国公使館を焼き討ちした現場。

 

 1863年1月31日深夜1時頃、完成目前だったイギリス公使館で、火の手が上がった。放火事件である。襲撃者は高杉晋作を隊長、久坂玄瑞を副将にした長州藩の若きサムライ10余人だ。

 芝高輪の東禅寺にあったイギリスの仮公使館は、攘夷派によって二度も襲撃を受け、公使館員数名が死傷した。新築の公使館は防御のため、深い空堀や高い柵を設けていたが、伊藤らはこれを越えて侵入し、戸板や建具を積み重ねて焼夷弾を爆発させた。贅を極めた公使館は全焼したのである。火付け役の伊藤(当時22歳)は襲撃用にノコギリまで持参していた。用意周到な男でもある。

  この事件は伊藤が「長州ファイブ」の一員として、長州藩から英国に留学派遣される4カ月前のことだ。伊藤は公武合体派だった長州藩家老・長井雅楽(うた)の暗殺計画(未遂)にも参画していた。攘夷の意気込みと世界に対する知識欲が同居していたのだ。

 いまマンションに取り囲まれた権現山公園は、隣接して新幹線などJRの線路を望む高台にある。公園内には子供用の遊具が置かれ、ソメイヨシノの花吹雪が舞い始めていた。

  現場千代田区三番町45

 焼き討ちから10日もたたない2月9日夜、伊藤は九段坂にある国学者・塙忠宝(はなわ・ただとみ)邸近くの暗闇に潜んでいた。帰宅した初老の男を認めると、伊藤はただちに切り掛かった。伊藤は盲目の国学者・塙保己一の子息であり、尊王思想に染まっていた伊藤は、彼が廃帝の事例を研究中との誤伝を信じ込み、斬殺したのである。

若き日の伊藤博文が国学者・塙忠宝を斬殺した千代田区三番町の現場

若き日の伊藤博文が国学者・塙忠宝を斬殺した千代田区三番町の現場

 共犯者は長州藩士の山尾庸三(24歳)だ。山尾は英国公使館放火でも、切り捨て役として参加していた。彼は伊藤とともに英国留学し、のちに明治政府の法制局初代長官になった。テロリストから政府高官へ変身した伊藤は、惨殺事件との関わりを聞かれても「我が輩はよく知らん」と答えていた。

  <ベルリンの酒場で懺悔>

  英国公使館放火事件の真相は、明治30年代頃から伊藤の回顧録などで知られるようになった。川島雄三監督の傑作「幕末太陽伝」(1957)の背景になるなど、現代でも著名な事件だ。彼らの出撃拠点になった北品川の旅籠「土蔵相模」の跡地は、いま「ファミリーマート」になっている。歴史マニアの訪問者が絶えない。

 しかし惨殺事件の方は、山尾が死去(1917年)した後の1921年になって、渋沢栄一が語ったことが唯一の「伝聞」として語られていただけだった。殺害現場の「塙邸跡」が駐車場になったせいで、いまはも撤去され、往時を偲ばせるものは何もない。大妻女子大千代田キャンパスの道路を挟んだ反対側の駐車場周辺が、テロ現場である。靖国神社南門まで徒歩5分の距離だ。

 伊藤は実際には、かなり早い時点で「真相」を語っていたことが、最近の研究で明らかになった。

 惨殺から19年後の1882年(明治15年)夜、憲法制定調査のためドイツ訪問中だった伊藤は、ベルリンの酒楼「ヒラー」でひどく酔っていた。幕末の長崎にいた著名な医師シーボルトの長男アレクサンダーの日記(3月21日)に、伊藤から聞いた以下のような記述がある。

  「一団は彼(忠宝)を九段坂で待ち伏せすることに決し、彼がやって来たとき、彼とその仕えの者に襲いかかって斬り倒した。伊藤は彼が本当に死んだかどうか確かめるために、次の日、またその者の家に向かった。伊藤はそこで、彼が病気であり、子息が老中のもとへ行っていることを聞いた。家の者たちは伊藤を監禁するためであろう、彼を家に招き入れようとした。しかし彼はそこを退去した。そしてその後、自分の刀剣が血まみれであることに気づいた」(瀧井一博「文明史のなかの明治憲法」2003)

 

 アレクサンダーは日本語通訳の能力があり、聞き間違いは無い。海外に出て、気が緩んだせいなのだろうか、伊藤は事後談まで話している。事件当時、血のりがついた刀剣に気づかなかった伊藤は、明治政府で高位に就くにつれ、若き日の過ちを後悔する時が多かったと見られる。

  <繰り返される朝鮮テロリズム>

 ハルビン駅プラットフォーム。伊藤博文が安重根に銃殺された現場

ハルビン駅プラットフォーム。伊藤博文が安重根に銃殺された現場

 1909年10月26日、満州ハルビン駅頭。伊藤の命運は突然、断絶する。

 朝鮮のテロリスト安重根の放った銃弾に倒れたのだ。外国勢力を含めた「安の背後」操縦説があるが、ここでは触れない。伊藤が死ぬ間際に言った「馬鹿な奴じゃ」という台詞が、より重要だと思われるからだ。

 誰が「馬鹿」なのか? 伊藤の言葉は安だけでなく、自らの若き日のテロ行為に向けられたものである、と私は解釈する。明治国家の建設に邁進し、朝鮮に近代文明の繁栄を築こうと心血を注いだ伊藤にとって、テロリズムは痴戯に過ぎないと思われたのではないか。安重根には孝明天皇暗殺の風聞をめぐって、伊藤に対する誤解があった。伊藤も塙を誤解して斬殺した。その双方に「孝明天皇」がからむ。歴史の皮肉だ。

  いまも爆弾テロが続く現代社会にあって、「テロリズム」をどのように表象し、国民をどう教化するのか。これが事件の歴史的評価よりも、より重大だと思われる。

 最近の日韓政府間の論争でも明らかなように、日本側にとって安重根は「テロリスト」であり、韓国側は「義士」と呼ぶ。しかし政治的行為の価値判断を抜きにして規定すれば、「テロリズム」との評価が正しい。ビルマ(当時)のラングーンで1983年起きた韓国閣僚爆殺事件(北朝鮮工作員による犯行)を、韓国側が「テロリズム」と呼ぶのと同様である。過去のテロリストを「義士」として賞揚する韓国では、テロリズムは根絶できない。

  歴史は繰り返される。

 153年前に伊藤が起こした惨殺現場に近い靖国神社の公衆トイレで、昨年12月、ちんけな爆弾事件があった。犯人は27歳の韓国人。彼は「(犯行が)ほめられると思っていた」と供述したという。パク・クネ大統領の母親は在日韓国人に射殺され、父親も部下に暗殺された。本人も与党代表時代、選挙遊説中に暴漢に襲われて顔を切られた。駐韓日本大使に投石した男は、駐韓米大使にもナイフで斬りつけた。
 

  「馬鹿な奴」が今後も、またぞろ登場しないという保証はない。

 下川正晴の顔写真 (2)   下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。

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