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◉第9回◉ 文世光事件〜悪魔が来たりて笛を吹く

朴槿恵大統領に対する弾劾訴追決議案が、韓国国会で可決された。

「韓国中興の祖」である朴正煕元大統領の長女が、大統領になって引き起こした事件に、反政府勢力は「諸悪の根源は朴正煕時代にあった」として、その「残滓」清算を訴えている。次期大統領選挙では、北朝鮮との融和政策を進める左派勢力の台頭が有力だ。韓国の政局は南北対立、左右激突の軸に沿って展開し、それによって日本外交も揺さぶられるという実態を、改めて喚起させられる展開でもある。

今回は、1974年の日韓関係を揺るがした「文世光事件」を取り上げる。

北朝鮮に使嗾された在日韓国人青年・文世光が、1974年8月15日、ソウルの国立劇場で開かれた「光復記念式典」で、朴大統領の暗殺を狙って短銃を発射し、同席していた陸英修夫人が殺害された事件である。最愛の妻を失った朴正煕は悲嘆にくれ、5年後に、部下によって暗殺された。二人の長女・槿恵は、父母に代わって国家の指導者になろうと務めた。その心の隙間に入り込んだのが、今回の醜聞の主役(崔順実被告)の父親であったことは、今や有名な話だ。

文世光は1951年12月26日生まれ。朴槿恵は1952年2月2日生まれだ。事件当時、ともに22歳だった。これは何かの因縁だろうか。

<現場①大阪府警南警察署高津交番>
9-1「弾劾可決」の12月9日、私は大阪市中央区にいた。

多くの中国人観光客が詰めかける「黒門市場」の近くに、事件の第1現場はあった。高速道路の下にある交番の前では、韓国から来たというカップルが旅行カバンを持ち、友人を待っていた。「ホテルの場所を交番で尋ねているんだ」という。若い彼らがこの場所の由縁を知るはずもない。

1974年7月18日未明。

この「高津派出所」(当時)で、枕元の拳銃保管庫からピストル2丁が盗まれた。警官4人は仮眠中だった。いずれも銃弾5発が装填された状態だった。約1カ月後、ソウル「国立劇場」でのテロ事件に使われたピストルの一丁が、この派出所から盗まれたS&W38口径短銃であることが、製造ナンバーなどから確認された。事態は、急展開した。日本の交番から盗まれた拳銃が、隣国の大統領の命を狙い、大統領夫人を殺害する大事件に発展したのである。

交番の隣にある雑貨店の店主に話を聞いた。「文世光事件? 知ってますが、前の前の経営者のころですよ。私はまだ生まれてなかった」。時間の流れとは、そういうものだ。しかし、時代を超えて、テロリズムの恐怖はよみがえる。

私は犯行前の文世光を、大阪で見たことがある。1972年頃だ。大阪外語大で開いた佐藤勝己氏(故人)の講演会で、会場の後ろの席から大きな声で、佐藤に噛み尽くような激しい発言をしていた背の高い男がいた。ソウルでのテロ事件後、「あの時の男だよ」。知人からそう言われて、思い出した。

文世光は裁判後、同年12月20日午前7時半、ソウル刑務所で死刑を執行された。死の直前「朝鮮総連に騙された私はバカだった」と、検事に語ったという。韓国警察は、文世光を操縦した背後人物として、文の自供にもとづき、朝鮮総連大阪府本部生野西支部政治部長を名指しした。しかし、大阪府警の捜査で、文の知人女性が出入国管理令違反などで起訴されたものの、この政治部長は容疑不十分として、事情聴取の対象にすらならなかった。

事件は歴史の闇に封じ込まれたまま、また、新たな事件が「暗殺被害者の娘」に起きた。国政の執行能力を欠いた女性大統領に同情する気はさらさらないが、歴史的事実への照明が偏っているのが、私にはひどく気になる。事件当時に流布された言説が、いまもって検証なしに引用されているのが実態だからだ。

<現場②ソウル南山「国立劇場」>

9-212月15日、私はソウル南山の「国立劇場」にいた。

南山周辺には何度も来たことはある。事件現場になった大ホールに立ち入ったのは、初めてである。劇場の玄関は閉まっていたが、1階にあるレストランから、2階のロビーに登ることができた。ホールのドアは、押してみると、空いていた。中に入る。暗い。ステージでは赤いライトが数個、点滅していた。暗い通路を通って近づくと、夜の公演に備えて、ステージには多くの楽器が置いてあった。静かだ。

客席に座る。文世光が事件当日に座っていたのは、会場の前から3列目、演台からは約25㍍離れた席とされる。現在のホールは改造されているため、事件当時とは座席の配置は異なるようだ。当時の記録によると、午前10時23分、黒っぽい服装の眼鏡をかけた男が、「ヤー」と大きな声を発しながら、大統領めがけて突進し、オーケストラボックス付近で拳銃を取り出した。1発目は誤発、4発目が大統領夫人の頭部を撃ち抜いたとされている。

犯人は在日韓国人であり、凶器が大阪の交番から盗まれた拳銃である。ソウル地検は17日、文の自供から、背後人物は「朝鮮総連の支部幹部」と発表し、事件は一気に日韓関係の大問題として浮上した。「金大中拉致事件」(1973年)を曖昧な形で収束させたばかりの日韓両政府は、大統領夫人殺害の銃弾によって、再び大混乱に陥った。

当時の日本政府の対応を振り返ると、現時点では想像を絶するほどに、北朝鮮に対する見方が甘かったことが分かる。韓国側が「妄言」として指弾したのが、木村外相の国会答弁(8月29日)である。

木村外相は参議院外務委員会の審査会で、韓国に対する北朝鮮からの軍事的脅威の有無について、「政府としては客観的にそういう事実はないと判断している」と述べたのである。これは常々「北からの脅威の存在」を強調し、大統領夫人の殺害が北朝鮮からの工作者によって背後操縦されたと考える韓国側を激怒させたのは、当然であろう。

1970年代は、日朝関係にとって、どういう時代だったのか。

北朝鮮による「日本人拉致」が、この1970年代に最も活発であったことを理解すると、木村外相の判断が誤っていたことが事実として指摘できる。他国に不法侵入して、他国民を拉致する行為は、国家の主権を侵害する行為であり、国際法上、直接侵略と見なされる。当時の日本政府は自国ですら、北朝鮮の脅威にさらされていたことに無自覚だったのだ。

<現場③ソウル銅雀区「国立墓地」>

9-312月13日、私は「国立墓地」を参拝した。

朴正煕大統領夫妻の墓を見ておきたかったのだ。ソウル特派員時代に来たことはあるが、娘である現職大統領の不祥事が起きた今、改めて確認しておきたかった。夫妻の墓は、国立墓地の丘陵を登り詰めた場所にある。

警護の職員が1人いた。間もなく、中年女性2人が参拝に現れた。墓地近くのマンションに住んでいるという。話を聞く。「困難な時期ですが、そのうち落ち着きますよ。日本もそうだったでしょ?」と彼女は言った。

国立墓地のあちこちを歩きながら、様々なことを考えた。ちょうどこの日は、日韓関係で大きな役割を果たした朴泰俊・浦項製鉄会長の5周忌が行われていた。未亡人や子息に挨拶した。さらに墓地の中を歩いていると、僕の口から「韓国国歌」のメロディーが流れ出た。我ながら驚いた。「民族と国家とは何か」を考え始めたのは、1985年のソウル留学以来である。それから約30年余り。韓国で再び露出したテロリズムの後遺症の深刻さに、僕は悄然とする他はない。

陸英修女史の慰霊碑は、子供たち3人の名義で建立されていた。女流詩人が書いた碑文に、こんな一節があった。

「あなたを捜した。あなたを呼んだ」

悲運の暗殺によって、母親を亡くした子供たちの心境は、現在の事態の中で読むと、さらに心が痛む。若い韓国人の友人は、今回の事態に衝撃を受けて、「我が国は誠実に生きるに値する国なのか」とフェイスブックに書き込んだ。韓国民は、悲嘆と怒りの中にある。僕は故大統領夫妻の墓に対面して、「大韓民国の栄光」を祈るしかなかった。

ソウル取材の最終日(12月17日)は、土曜日だった。保守派と反政府派の2つの集会を取材した。

安国洞交差点から楽園洞一帯までの道路で行われた保守派の集会は、参加者の年齢層が高かった。若者の姿がほとんど見られない。デモ行進が始まった。伴奏音楽は「ああ大韓民国」(1983)である。往年の大ヒット曲。この国の上昇期を象徴する歌だ。その一方で、韓国国歌の自虐的な替え歌が流行り始めたとの話も仄聞した。政府不信が国家不信にまで、燃え上がる様相がある。

この国は解放後にテロと内戦が続き、1960年代以降は大衆デモやクーデターで、局面を打開しようとして来た。その政治文化は、時に暴発するのが怖い。

反政府集会は、光化門広場の救国の英雄像(イ・スンシン将軍)の足下で開かれていた。

弾劾訴追案が国会で可決され、集会参加者は激減した。それだけに主導勢力の姿がはっきり見える。アンチ財閥の労組と、北朝鮮への同調勢力だ。その周囲に現職大統領への不信にかられた市民が集まっている構図である。5日間の取材を通じて、野党側の大統領候補には新鮮味のない文在寅氏よりも、過激派の李在明・城南市長が台頭する可能性が高いと観測した。彼は日本を「敵性国家」と呼んだ初めての大統領選有力者だ。

韓国の政治情勢は、混沌としている。次は、どんな風が吹くのか? 北朝鮮の沈黙が不気味だ。

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。

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