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東京タワーの下から

東京タワーと紅葉館とクーデンホーフ光子

◆「鹿鳴館外交」の一翼を担った一大社交場

東京タワーが建っている場所に昔、紅葉館という料亭があった。明治14(1881)年、当時の東京市芝区芝公園20号地の増上寺裏山の鬱蒼と茂る古木を伐採した台地に建てられた純日本建築の料亭である。昭和20(1945)年3月10日の空襲で焼け落ちるまで、明治・大正・昭和を通じて、わが国を代表する社交場として使われていたそうだ。

紅葉館の面影はわずかに「もみじ谷」と呼ばれる公園に残っているだけだ。芝公園は「薄皮饅頭の皮」と悪口を言われるほど、変わった形をした公園である。徳川家の菩提寺である増上寺や東京プリンスホテルが中央にドカンと鎮座し、その周りを取り囲む部分を公園としているからだが、東京タワー東側の一角を「もみじ谷」と呼ぶ。江戸時代、徳川二代将軍秀忠が千代田城(今の皇居)の楓山から多数の楓を根分けして移植したことから、いまでも楓の木が多く、紅葉館があった当時の名物「紅葉の瀧」を模した滝もつくられ、家族連れや近所のサラリーマン、OLたちの憩いの場となっている。

その芝・紅葉館が建った2年後の明治16(1883)年、日比谷公園前の薩摩藩上屋敷跡地にイギリス人コンドルが設計した洋風2階建ての鹿鳴館が建てられ、「鹿鳴館外交」が展開された。

edonobutoukai外国人を招待し舞踏会で懐柔しようという作戦だったが、ダンスのできる日本人はそういなかった。そこで政府高官夫人が前面に出ざるを得なかった。山田風太郎は小説『エドの舞踏会』で海軍少尉時代の山本権兵衛を舞台回しにして、その高官夫人たちの実態を描いている。12歳の少女時代に岩倉使節団の欧米視察に伴われてアメリカへ留学した大山巌陸軍大臣夫人捨松(旧姓山川)、夫とともに欧米実業界視察に同行したハイカラな井上馨外務大臣夫人武子、元馬関芸者だった伊藤博文首相夫人梅子、長州志士の娘である山県有朋夫人友子、深川芸者上がりの黒田清隆夫人瀧子、旗本の娘だったが瓦解で吉原の遊女に身を沈めた大隈重信夫人綾子、木挽町の美妓だった陸奥宗光夫人亮子などなど……。

政府高官も相当の努力をしたには違いないが、世の中にはまだ攘夷の気風が残っており、「欧化の行き過ぎ」と鹿鳴館外交を批判する声がやまず、関係者が襲撃されたりしたため、明治20(1887)年の井上外務大臣の辞任を機に欧化熱が一気に低下。建物は明治22(1889)年に払い下げられて華族会館となり、昭和15(1940)年には取り壊された。

鹿鳴館外交はもっぱら鹿鳴館が舞台だったと勘違いしそうだが、鹿鳴館を使っての外交はわずか7年で幕を閉じている。その後の外国要人の接待には主に紅葉館、浜離宮、芝離宮などが使われた。

 

◆紅葉館の座敷女中をしていたクーデンホーフ光子

kouyoukanwomeguruhitobito池野藤兵衛著『料亭 東京芝・紅葉館 紅葉館を巡る人々』(砂書房1994年刊)によると、紅葉館は伊藤博文、板垣退助、高橋是清、副島種臣、新渡戸稲造、原敬、明石元二郎各氏らの歓迎会、送別会や陸奥宗光氏の出獄祝い、日本鉄道株式会社の定款完成の祝宴などにつかわれただけでなく、尾崎紅葉ら当時の日本の文学界を席巻した硯友社社員が応接間代わりに使っていた。また政党人や海軍軍人の会合にも頻繁に使われたという。

その紅葉館に座敷女中として住み込みで働いていた女性の一人が青山光子である。光子(みつ)は明治7(1874)年7月16日、佐賀出身の商人青山喜八と妻つねの三女として東京・牛込納戸町に生まれた。光子は当時の子供の例にもれず尋常小学校も出るか出ないかで紅葉館に座敷女中として奉公に出た。上流社会が利用する紅葉館は行儀でも稽古事でも大変に厳しく、ここで受けた職業教育がのちの光子の生活を支える。光子は琴、三味線、和歌、踊り、茶道、生花の技を身につけたという(南川三治郎・シュミット村木眞寿美著『クーデンホーフ光子――黒い瞳の伯爵夫人』河出書房新社1997年刊の評伝)。

kudenhofumitsuko光子が紅葉館を辞めて骨董品店を営む牛込納戸町の実家に帰っていた明治25(1892)年3月の朝、オーストリア=ハンガリー二重王国の代理公使として日本に赴任したハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギーが乗馬に通っていた牛込納戸町の坂で、氷の破片に馬が蹄を踏み滑らせ転倒、ハインリッヒはしたたか体を打った。それを目撃した光子は家の者に急を伝えて救護し医者を呼んで手当てさせた。この時、彼女は数えどしで19歳。かいがいしい働きぶりに惚れたハインリッヒは感謝の気持ちを込めて光子を公使館の住み込みに雇った。そして、住み込んでひと月もたたない3月16日に二人はスピード結婚した。

二人のなり初めから結婚に至る経緯については異説もあるらしいが、紅葉館で行儀作法を習った町人の娘が度胸一つでボヘミヤ貴族の妻となり、身一つでヨーロッパに渡ったことは事実である。そして、その次男が「欧州統合の父」と呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーである。長男とリヒャルトは東京で生まれた。リヒャルトには栄次郎という日本名もある。

◆「独仏和解論」ではないリヒャルトの欧州統合論の特徴

yoropanobundantotougou日本では「ミツコ」という香水の名前になっていることや、吉行和子氏の一人芝居が注目されたこともあってクーデンホーフ光子やリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは欧州統合との関係でよく知られているようだ。しかし、青山学院大学大学院教授の羽場久美子氏によると、本場ヨーロッパなどの学界では欧州統合論でカレルギーが言及されることは少ないという(『ヨーロッパの分断と統合 拡大EUのナショナリズムと境界線――包摂か排除か』中央公論新社2016年刊)。中欧の小さな国の動きよりも、ジャン・モネやロベール・シューマンらが展開した「独仏和解が欧州統合に大きく影響を与えた」との論が熱く語られているのだという。

リヒャルトは第一次世界大戦後に「パン・ヨーロッパ」構想を発表、一躍ヨーロッパの寵児となった。彼の構想が人気となった背景には西進しようとするソ連の「脅威」に対処しなくてはいけないというヨーロッパの人々の切迫感もあったとされる。羽場氏は「EU統合の根幹は独仏和解という大国間の連合ではなく、諸民族の融和、多様性の統一、差別を超えての共存である。この問題についての先駆的研究が鹿島守之助と鹿島研究所によるクーデンホーフ=カレルギー全集の訳出だ」という。日本はいい仕事をしているのである。鳩山由紀夫元首相の祖父、鳩山一郎元首相はリヒャルトと親交があった。鳩山一郎氏の有名な「友愛」という政治理念は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー譲りのイデオロギーとされている。

◆「文明の転換期」に日本、EU、世界を考える

イギリスの国民投票でEU離脱派が勝ったことから、イギリスの内政だけでなく、EUそのものも大きく揺れている。冷戦終焉後の新しい国際秩序がいまだに見えない中で、「アラブの春」を代表とする旧植民地各国のナショナリズムに起因する新しい民主主義の動きが急速に広がり、残念ながらその結果、独裁者は倒したものの、統治能力に欠ける”欠陥国家”があちこちにできた。そこにイスラム教の名を借りた急進過激派が巣食い、国際的なテロリズムの一大基地となってしまった。大量殺戮から逃げようとする難民・移民の群れが欧州に向かった。あまりの大量難民・移民の襲来に欧州の人々の間にはゼノフォビア(外国人嫌い)、外国人排除、偏頗なナショナリズムが急速に広まった。2014年の欧州議会選挙では幾つかの国で極右政党が躍進。その傾向は年を追うごとに深まり、広がっている。

どうもこれはEUだけの危機ではなさそうだ。アメリカ大統領選の「トランプ現象」も含めた新しい現象は、もしかして水野和夫・法政大学教授らが「文明の転換期の出来事」というような、大きな変化の前触れの現象なのかもしれない。バングラデシュで起きた卑劣なテロで邦人7名が犠牲になった痛ましい事件はつい先日、起きたばかりだ。日本人はこの激変する世界でいかに生きるべきか――。

オーストリアに渡った光子は、明治38(1905)年、結婚14年目にハインリッヒが突然死去したことから、残された7人の子供を育て上げることに専念。その結果、光子は昭和16(1941)年8月27日、一度も日本の土を踏めないままに異国の土となった。67歳だった。明治の国際人であり、グローバル時代の先覚者・光子の人生を振り返ると、普段見えなかった日本と欧州のもう一つの「関係」や、いつもとはちょっと違ったEUの姿が見えてくるかもしれない。

(2016年7月11日)

写真 長田 達治(おさだ・たつじ) 1950年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。毎日新聞社記者、一般社団法人アジア調査会専務理事を経て、2015年7月より一般社団法人日本外交協会常務理事。