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外交の現場を行

◉第6回◉ 古都・台南で生きた日本人の物語

元朝日新聞台北特派員の野嶋剛氏が書いた「台湾とはなにか」(ちくま新書)には、重大な誤りがある。

「日本と台湾が初めて出会った19世紀の頃」という記述だ。これが、この魅力的な新書の結語部分にあるので、私は驚いた。日本と台湾が初めて出会ったのは、19世紀ではない。17世紀以前なのである。

古都・台南郊外の「国立台湾歴史博物館」に行く。2011年に出来た新しい施設だ。ここに長崎の朱印船の船長である「浜田弥兵衛」(はまだ•やひょうえ)に関する展示がある。1625年、台南を支配するオランダ人に反抗して起した「タイオワン事件」の主人公だ。

<歴史の現場①、オランダ要塞「ゼーランディア城」>
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その舞台になった「ゼーランディア城」には、歴史のロマンを感じさせる風格がある。台南市街地から自転車で西へ約20分。海岸近くに安平(アンピン)の古い町並みが現れる。そこに、この古城がある。旧称が「熱蘭遮城」、現在は「安平古堡」。1624年、オランダ人勢力によって造られ、その後の鄭成功三代政権でも王城として使用された。

オランダ人は当時、台湾に住む外国人や船舶から、10%の関税を取り立てる措置に出た。これに承服できない浜田弥兵衛ら日本人の一団は、ゼーランディア城を急襲し、オランダの台湾長官を拘束し、その息子を人質として日本に連行した。最後は、オランダ側が譲歩して関税は撤回され、安平は自由貿易港の面目を取り戻した。

この浜田弥兵衛の胸像が、現在の台南市政府の1階ロビーに展示されている。台湾人企業家によって寄贈された。

後藤新平、八田輿一、新渡戸稲造らとともに、17世紀の日本人が顕彰されているのである。シャム(現在のタイ)の山田長政はとても有名だ。浜田とほぼ同じ江戸前期の日本人だ。私たちは「台南の日本人」の名前も記憶しておいた方がいいだろう。浜田弥兵衛に関する展示は、安平古堡の城内にあるミニ博物館にもある。

念のために、台湾の歴史を復習しておこう。

原住民族が住んでいた台湾に、17世紀初め、オランダの植民勢力が移住して来た。彼らはこの島を「フォルモサ」(美麗島)と呼んだ。39年続いた。しかし鄭成功の反乱が起き、彼ら三代が22年統治した。1683年から212年間は清朝の時代だ。1895年、日本が日清戦争に勝利し、台湾は1945年まで日本が統治した。敗戦後、2000年までが国民党の時代だ。そして、紆余曲折はありながらも21世紀は民進党を中心とした「台湾人」の時代が始まった。

つまり「台湾人による台湾人の国」の歴史が始まったのは、今世紀になってからという「若い国家」なのだ。

国立台湾歴史博物館の展示のキーワードは、「海と多元性」である。海洋国家としての台湾の「土地と人々」の春夏秋冬が、巧みに表現されている。博物館の公式ガイドブックによると、日本統治期は「初秋」であり「整然」がキーワードだ。国民党支配期は「冬」である。そしていま「初春」が始まったというのだ。これは想像以上に、革新的な歴史観だ。

<歴史の現場②、「湾生回家」:台南公会堂で開かれた「日台同窓会」>
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「台南に来れば、凝縮された台湾の歴史と、街の隅々にまで染み込んだ台湾人の生活がある」(大東和重「台南文学」)

9月上旬、私は台南に数日間滞在した。上記の関西学院大教授による記述に全面的に同意したい。台南には戦前には、前嶋信次(イスラム文化史)、國分直一(民族考古学)が中学教師として在任した。一時滞在した佐藤春夫(小説家)は、植民地文学の名作「女誡扇綺譚」を書いた。

「人はよく荒廃の美を説く。又その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に実感した事はなかった。安平へ行ってみて私はやっとそれが判りかかったような気がした」(女誡扇綺譚の一節)

台南の街の魅力を説く文章は、戦前も現在も数限りない。

台南はいま「台湾の京都」として、台湾国内のみならず、日本からも観光客が押し掛けている。11月12日、神田・岩波ホールで公開される台湾映画「湾生回家」は、湾生(台湾で生まれた日本人たち)の軌跡を描いたドキュメンタリーだ。この映画の上映で、さらに「台南熱」は高まるに違いない。

9月初旬、台南公会堂で湾生たちの「日台同窓会」が開かれた。映画の出演者たちも多数参加していた。羽鳥直之(84)=横浜市在住=の姿もあった。日本統治時代の最後の台南市長・羽鳥又男の三男である。

--1942年、羽鳥又男が台南市長になった時、オランダ人が建てた赤崁楼(せきかんろう)は老朽化が進み、いまにも倒壊しそうだった。羽鳥は戦時中にもかかわらず、周囲の反対を押し切って、1年以上の時間と経費をかけて、これを修復した。台南孔子廟も羽鳥が外観を修理した。台湾最古の釣鐘「古鐘」の保存にも尽力した。衛生環境の悪かった台南の下町で清掃コンクールを行った。

羽鳥は、日本の降伏後も台南州接管委員会のアドバイザーとして、台南市政にかかわった。彼に感謝し記念する銅像が、赤崁楼にある。

「日台同窓会」の会場になった台南公会堂は、1911年に建てられた「台南会館」の後身である。いまも現役の「台南駅」の建物は、今年80歳を迎えた。駅東にある国立成功大学のキャンパスには、昭和天皇が皇太子時代の1923年に訪台した際、植樹したガジュマルの木が大木になって、日台の歴史を感じさせる。

羽鳥ら「湾生」一行は後日、台湾南部の屏東県竹田郷にある「池上一郎博士文庫」も訪れた。

池上博士は、東大卒の軍医だ。竹田の軍部隊に赴任し、多くの台湾人患者からも慕われた。敗戦による引き揚げは、日台双方の哀しみでもあった。博士の死後、彼を記念して日本語書籍を集めた「文庫」が作られた。ここでは、戦前からの「竹田」駅舎も保存されている。日本支配期に「竹田」の名がついた。それを現在も使っている。ここが現代台湾人のスゴイところだ。

<歴史の現場③、日本人兵を祀る「飛虎将軍廟」>
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今回の台南旅行は、台南市の「飛虎将軍廟」を取材するのがメーンだった。9月下旬に水戸市の茨城県護国神社への「里帰り」が計画されている。同神社の宮司が台南を訪れるタイミングで、私も同行したのである。

「飛虎将軍廟」は、台南上空で戦死した日本軍の零戦パイロットの霊を、台湾人が祀ったものだ。司馬遼太郎氏が訪れたこともある。「親日台湾」の象徴のように言われる場合もある。しかし私の観点はやや違う。事前の調査によって、戦死した日本兵の霊が夜な夜な現れることを怖れた地元の人々が、その供養のために建立したものであることを確認していたからだ。それを立証した日本人学者の論文もある。

こういった地元の信仰が国民党時代に「弾圧」されたこともあり、その「親日性」がクローズアップされることになった。日本人の参拝客があると、霊前では「君が代」「海ゆかば」のテープが流される。観光客相手のパフォーマンスの面はあるとしても、日本人の神様「飛虎将軍の霊を慰める」という道教的な色彩があるのを忘れてはいけない。それほど、台湾人の信仰心は厚いのである。

台湾南部の屏東には、オランダ人女性を祀る道教寺院がある。私の友人の林承緯氏(国立台北芸術大副教授、民俗学)から確認した。彼女は地域に貢献のあった外国人として祀られ、顕彰されているという。飛虎将軍の例も、まず地元信仰=道教の観点から見る必要があるということだ。台湾人の宗教と国際性を象徴するエピソードと言える。ことほど左様に台湾人は、外国人であろうとなかろうと、後世のために尽くした先人たちを大事にする。

「台湾は台湾人の国」(はまの出版)。元台北駐日経済文化代表処代表(台湾大使)許世楷氏の著書は、感銘深い。盧千恵夫人との共著である。論旨は明快、文章は平易。挿話は魅力的であり、傾聴すべき提言が多い。

東京大学で法学博士号を取った。津田塾大の教壇に立ちながら、台湾独立運動に取り組んできた。彼が書いた「台湾共和国憲法草案」が素晴らしい。日本人に向かっては、親中派でも親台派でもなく「日本派」であれと説く。さすがに、国際社会で独立国家のあり方を考えてきた人は、半端なことは言わない。そして対中関係で「台湾人を犠牲にしないで」と日本人に訴える。言論の自由を守り、焼身自殺した後輩への愛惜に胸を打たれる。

彼は同書で「台日関係にも台湾関係法を」と提言する。

米国には台湾基本法があるが、日本は台湾と「国交断絶」後、何らの規定がない。「台湾と日本の間には、そういう法律がありませんから、なにもかも流動的です」。東大大学院で法学博士号を取得し、津田塾大学で長年教鞭を取った許氏は、そう指摘するのだ。

台湾と日本の間には、正式な外交関係がない。だから、本稿は「外交の現場」ではなく、「日台交流の現場」探訪記だ。しかしアジアの他国に劣らず、日台関係の絆は厚く温かい。「感謝台湾」。3・11で台湾からは、世界最高額の義援金が日本に届けられた。この恩義を我々は忘れる訳に行かない。

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。